最後の弁当、最初の産着(2025年4月)

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  • 母(39歳)CV:山崎るい=シングルマザーで働きながら息子を育てた。アレルギー体質になっている息子に対して責任を感じ、どんなに忙しいときも毎日弁当を作ってきた

<序章/1998年3月>

■SE〜赤ちゃんの産声

初めて息子の産声を聞いたとき、私は感動で胸が震えた。

”この子のためなら、私はどんなことでもしよう”

強く心に誓う。

そんな喜びも束の間。母乳を飲む息子に異変を感じた。
最初は皮膚に現れた湿疹。
それは乳児特有の症状だと思っていた。

ところが、気がつくと母乳を飲みながら、苦しそうに息をしている。

そう。これは・・・アレルギー反応。
母乳に含まれる特定のタンパク質に反応して起こっているらしい。
原因は、私が普段食べているもの。

私はシングルマザーだ。
父も母も日本にいない。
働いているのは、高浜の特別養護老人ホーム。
介護士として入所者のいろんなサポートをしている。

当然、仕事は不規則。
食事も朝昼晩、決まった時間になんてとれない。
ランチなんて食べる日の方が少ないくらい。
夜遅く家に帰ってきて食べるのは、決まってカップラーメン。

こんな食生活が、子供をアレルギーにしてしまったのかもしれない。

”この子のためにできること”

私は、所長に相談して、介護職から生活相談員に変えてもらった。
今までのような夜勤や宿直もやめて、日勤だけに。

夜勤手当がなくなる分、生活は苦しくなるけど、仕方ない。
食生活だってもちろん変えた。
食事はすべて自炊。
食材もなるべく添加物の含まれていないものを選ぶ。
ポイントは、原材料欄のなるべく少ないもの。
そうすれば、意外と高いお金を払わなくてもいけるんだ。

”この子のために”

生活を切り詰めても、この子に貧しい思いをさせるのはいや。

そうだ。
私、子供の頃から手先が器用で編み物が得意だったんだ。

着るものはもちろん、マフラー、手袋、靴下、ポシェットやブランケットまで。
なんでも、手編みでつくった。

『子供がアレルギーになるのは、母親の愛情が足りないから』

無神経なことを言う人も周りにはいたけれど、関係ない。
だって、愛情なら負けないもん。

使うのは安価なアクリル毛糸。
そうそう、百均の毛糸や編み針って、安いけど結構品質がいいんだよね。

<シーン1/2002年3月>

3年後。
息子の3歳の誕生日。
私は息子に、名前入りのキラキラしたセーターをプレゼントした。

ウールの毛糸はちょっと高かったけど、息子の喜ぶ顔を見たら、そんな思いは吹っ飛んだ。

4月になって、幼稚園に行くようになると、
息子の身の回りはメイド・イン・ワタシのニットで溢れかえっていた。

先生からもらってくる連絡ノートにも、

『おかあさんの愛情あふれるニットに包まれて、息子さんは幸せですね』

なんて書かれていた。
よかった。編み物をして。

私は日勤の仕事になったけど、それでも仕事を終えて帰宅するのは夜7時。
それまでは延長保育で園に預かってもらう。
延長保育は有料だけど、働きながら子育てしてる私には助かる。

私、基本的に残業はしないけど、ときどき息子が一番最後だった。
それでも息子は笑顔で私のもとに駆けてくる。
なんか、私の最大の理解者って感じ。
先生も、延長保育の間、息子はいつもニコニコして絵本を読んでるって。
ありがたいなあ。

幼稚園に入る頃から息子のアレルギーも治ってきたようだ。
食生活の改善が効いてる?
下処理を工夫して作ってるんだから。
このまま、健康になって、元気に育ってほしいな・・・

<シーン2/2008年3月>

息子の9歳の誕生日。
早めに仕事を切り上げて、学童へ迎えに行くと、なんだか元気がない。
車の中でも無口だ。

アパートに帰り、朝仕込んでおいた料理を仕上げる。
息子の大好物、私の得意料理、とりめし。
少〜し豪華に、平飼いの地鶏のもも肉で。
だって誕生日だもの。
雑穀米を加えて、栄養価と食感をプラス。
うずらの卵、にんじん、しいたけなどを加えて、特別感を演出する。
全部オーガニックよ。

帰り道のケーキ屋で買ってきたスイーツは冷蔵庫へ。
ちょっと奮発してカップケーキ2つと、
息子が大好きな生パピヨンというスポンジケーキ。
今日は半分だけにして、残りは明日食べよう。

とりめしを食べ終わった息子に、可愛くラッピングしたプレゼントを手渡す。
息子は黙って受け取り、包みをあけた。
中から現れたのは、サッカー柄のニット帽とリストウォーマー。
私の手編み。自信作。
最近休み時間にいつもサッカーやってるって言ってたから。
喜んでくれていると思って、顔を覗き込むと・・・

息子はプレゼントを私に投げつける。
そのまま、自分の部屋に引きこもってしまった。
正確に言うと、簡易パネルで仕切った勉強スペースだけど。

少し時間をおいてから息子に話しかける。

「ごめんね。気に入らなかった?」

息子はうつむいたまま私に説明した。

『小学校高学年になって母親の編み物を身につけるなんてダサい』

友達からこう言われたそうだ。

「そっかぁ。そりゃそうだね。もう9歳だもんね。
ママ、考えが足りなかったね。ホントごめん」

そう言って私はアパートを出た。

その足でショッピングセンターへ向かう。
明日の晩御飯の食材、用意していなかったな。
なにしろ慌てて帰ったから。

そのあと既製品の帽子とリストウォーマーを買った。
息子が大好きなブルーとレッドのストライプ。
このくらいの出費は、ちょっと残業すれば大丈夫、大丈夫。

この日を境に、私が毛糸を買うことはなくなった。
編みかけだったものもすべて封印した。

問題ない。

ようし、明日からまたがんばろう。

息子のために。

<シーン3/2014年3月>

中学を卒業して高校へ入ると、息子は吹奏楽の部活を始めた。
なんでも、吹奏楽で有名な高校らしい。

2年生になったころ、しばらく朝練が続いた。
朝5時に家を出る。
私は4時起き。
いいのいいの。
早出で残業つけさせてもらえるから。

こんなときは息子だけじゃなく、私も体調管理には注意しないとね。

最近は弁当を残してくることが多くなった。

疲れてるんだろうな。
それに準レギュラーだって言ってたからストレスもあるだろうし。

それならば・・

大好物のとりめしをおにぎりにして、鶏のガラスープを水筒へ。
味付けはあっさり目にしたから体にもいいのよ。

息子との会話はほとんどなくなっちゃったけど、お弁当で話せるから問題ない。
息子の気持ちに合わせた、栄養バランスの良いメニューと、さりげないメッセージ。

吹奏楽の大会の日は・・・
無添加の豚肉に大根おろしとポン酢を添えて『負けないで。君の音が、ちゃんと届きますように』

風邪気味で食欲がないときは・・・
雑炊風のおかゆと無農薬の温野菜で『無理しなくていい。ゆっくり回復しよう』

ひょっとして失恋したかもしれない日は・・
授産所のみなさんが手作りで焼き上げたクッキー。
少〜しだけビターな、ぱりまるしょこらクランチね。
食物アレルギーの原因食品、特定原材料7品目が不使用なんだから。
メッセージはこう。
『サクッと次いこ!甘くてビターな心を癒して』

なんて感じ。

毎日大変だろうけど、がんばって。

<シーン3/2015年3月>

高校の卒業式は、息子の誕生日だ。
前日が最後のお弁当。

息子は東京の医大に合格した。
小さい頃からの夢で医者になりたいんだと。

そんなこと言ってたっけ?

卒業式の前の日。

『最後の弁当は、息子の好きなものばかりにしてやろう』

だからいつもより30分早く支度を・・・

そう思ってキッチンへ行くと、

え?

息子の後ろ姿。しかもエプロンをしている。
そっかぁ。最後だから自分で作ってみようってことね。
えらいえらい。
料理に夢中で気づいていないみたいだから、私はそっと布団に戻った。

ほどなく息子が戻ってくる。
私はいま目覚めたかのように、体を起こして

「おはよう」

と声をかけた。
食卓へ行くと、料理が並んでいる。

カルボナーラ、肉じゃが、スイートポテト。

なにこれ?ぜんぶ私の好きなものばかりじゃない。

ちょっとちょっと。やめてよ。
自分のお弁当を作ってるのかと思ってた。

「お弁当は作ってないの?」

「もう〜しょうがないなあ」

そう言って息子に背を向け、キッチンに立つ。
左手で涙をぬぐってから、振り向く。

「あ、やっぱり、あったかいうちに先に食べちゃおう」

最後のお弁当は、旅立ちのとりめし弁当。
私の味、とりめしとふわふわのだし巻き卵。
ほうれんそうの胡麻和えと手作りの大学芋。
オーガニック、というキーワードは忘れずに。
メッセージはこう。

『今までありがとう。東京へ行っても元気でがんばれ』

卒業式のあと、息子は笑顔で旅立っていった。

私は、1人になってから、また介護職に戻った。
感覚を取り戻すのに時間はかかったけど。

医大というのはお金もかかるし大変だ。
アルバイトに明け暮れたら勉強がおろそかになる。

以前より夜勤と宿直を増やした。
少しでも仕送りを増やして、息子が勉強できる環境を作ってやらないと。

医学部は6年間だ。
その間、私は特別養護老人ホームで一生懸命働いた。

6年生になると医師の国家試験。
息子は無事に合格した。
やっぱり、頭のいい子なんだ。私の子供だもの。

これから2年間は研修医か。

息子は医大を卒業したあと、東京の総合病院へ就職した。

優秀なドクターなのだろう。
たまに送られてくるLINEによると、朝晩関係なく走り回っているそうだ。

『無理して連絡しなくてもいいから、仕事がんばれ』

私はそう言って強がったけど、それもこれも、すべては息子のため。

私からは一切連絡をとらないようにした。
息子の足手纏いにならないように。
その代わり、栄養のあるものは毎週毎週送り続けた。

自慢は私特製・高浜名物「とりめし」の自作セット。
鶏肉を冷凍して、もち米ともち麦のブレンド。
醤油とみりん。
乾燥ごぼうと干ししいたけ。

ご飯のお供は、ちりめんじゃこと
醤油漬けの梅干し。

みんなお前を育ててくれた高浜の食材。

健康には気をつけてな。

<シーン4/2031年3月>

結局、無理してたんだなあ。

私はいつしか体を壊し、気づけば、病院のベッドの上にいた。

そして、医者になって10年後。息子の誕生日。
息子の元に私の危篤の知らせが届いた。
お医者さんには知らせないように言っといたのに。

でも嬉しかったな。

すぐにかけつけた息子は私の手を握ってくれた。

ああ、幸せな人生だった。

私は息子に看取られて旅立った。

入院するとき、アパートはきちんと整理してきたからほとんど遺品はない。
息子に残せたのは、ほんのわずかながらの貯金と・・
アパートの部屋の隅に置かれた小さな収納ボックス。

神妙な表情で中をあけた息子は言葉を失った。

それは、いつか息子にこども、つまり私の孫ができたとき、優しく包みこむための産着。
これだけは、最後の毛糸で編んでおいたんだ。

サプラ〜イズ。

同じ言葉を繰り返す息子を、私は空の上から誇らしげにいつまでも眺めていた。

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